2012年度第1回北方四島ビザなし交流に参加した記事をまとめました。
2012年度第1回北方四島ビザなし交流に参加した記事をまとめました。
7月2日、予定通り根室港に帰船。
解団式を行い、どっしりと疲れを感じながら、福井の家に帰りました。。
北方四島ビザなし交流。刺激的な旅でした。
ここまで、僕が上陸したときの様子を書いてきましたが、なんだか「ロシア訪問記」のような感じになってしまっています。
何度も北方四島を訪れた方の話によると、島のロシア化は特にここ数年、とても進んでいるとのこと。
それほど島の中での日本の影は薄く、北方領土問題の深刻さ、解決への困難さを思い知りました。
僕ら訪問団が帰ってすぐ、国後島にロシア・メドベージェフ首相が上陸。
「一寸も渡さない」と発言したそうです。
時間だけが過ぎていき、北方四島問題のこれからが元島民の方の無念を忘れてしまわないように。
僕もつながりのある一人として、この問題について学び、行動していきたいと思いました。
事務局のみなさんはコロコロ変わる島側の対応に翻弄され本当に大変そうでした^^;。
貴重な体験をさせていただき、本当に感謝しています。ありがとうございました。
また、福井への帰り道、電車でサイフを落としてしまったのですが、見つけてすぐ郵送してくれた釧路駅の職員さん、助かりました。m(_ _ “)m ホントスイマセン
今回の訪問でのカルチャーショック。
町のトイレに便座がない!!
日本と同じ洋式の便器はあるんですが、座って用を足すための便座が、どこへいってもないんです。
「どうやって●●●するんだ…??」
と疑問をもちました。
公衆トイレの便座は、主に盗まれるそうです。
盗んでどうするんだ…という感じですが、他にも壊れた後に修理せずほったらかしとか、そんな感じらしいです。
女性は町ではトイレしない、という文化だそうで…かなり驚きました。
いっそのこと和式にすればいいのに…
日本製のものはほとんど見られない国後島と択捉島でしたが…日本ありました!
訪問で訪れたホールの音響設備が、どこも全てYAMAHAの製品でした!
日本語表記はなく英語圏向けの商品でしたが、少し嬉しくなりましたw。
独立行政法人 北方領土問題対策協会のホームページ上に、
「あなたの町と北方領土とのかかわり」http://www.hoppou.go.jp/gakushu/watashitachi/
と題して、各都道府県と北方領土との歴史的なつながりについて、詳細に書かれています。
是非一度、みなさんのお住まいの項をご一読いただければと思います。
また機会に恵まれれば、北方領土に行きたいと思います。
ビザなし交流4日目。7月1日択捉島2日目の後編です。
舗装されていないため車が走るとすごい砂煙が舞います。車は昼間でもライトをつけて走行します。
昼食後で満腹状態での移動。このころには悪路の中でも居眠りできるくらいに私たち訪問団員も成長していました(笑)
新クリル発展計画の一環として、以前あった幼稚園を改修、2011年9月にオープンした新しい幼稚園だそうです。
きれい・広い・素敵!
こちらでは、年少組(1歳半~3歳)、年中組(3歳~5歳)、年長組(5歳~7歳)の3グループに分かれているそう。
それぞれに写真のような部屋が用意されています。
在籍園児50名。この幼稚園で周辺の保育需要を満たせているため、待機児童はゼロとのこと。
保育料は、月約15,000円ほど。けっこうしますね~~
またも島の自然に癒されるひととき。
ほげー!
2011年3月竣工、2012年6月完成。できたてほやほやのディーゼル発電所です。
出力1,500キロワット。これひとつで村すべての電力をまかなえるそうです。
ところが別の場所にある地熱発電所がもうすぐ本格稼動の予定で、それが完成すればここも予備発電所となるそうです。
安定電力網の整備も進んでいます。
さらに移動。展望麗しいオーヨ湾へ。
択捉島の自然についての解説を受け、オーヨ湾の対岸にある「ギドロストロイ社」水産加工場へ向かいました。
北方四島で水産加工業などを営む大企業・ギドロストロイ社。
「北方領土はギドロストロイ王国だ」といわれるほどで、択捉島の約65%の人がギドロストロイ社関係の仕事に関わっているそうです。
従業員のうち20%くらいはキルギスタン、タジキスタンなど旧ソ連を構成していた各国からの季節労働者など外国人。アジア系の労働者は言葉の問題もあり少ないとか。
2006年に完成したこの工場は孵化場も併設されていて、大企業ならではの効率化された仕組みになっています。新鮮な製品を日本を含め世界に輸出しているそうです。
↓展示されていた、かつての漁の様子より
昔は引き上げた魚をトラックに積むのに、人力で放り投げていたそうです。
ウソみたいなホントの話ですね^^;
島での最後のスケジュール。
クリル地区議長兼地区長さんと、別飛村長を囲んで、夕食交流会です。
ここでもおいしい食事を用意してくれました。
ここでも歌謡ショー!
島にもディスコがあるそうで、流行のダンスミュージックを。
ハートの裏には歌詞カードがあるのさ!
カラオケはパソコンで管理していて、その場で選曲してどんどん歌っていきます。
地元の歌手かな?歌うまかった!
団員もたまらずおどりだす!
島での全てのスケジュールを終了し、いよいよ帰船。
↑この写真の撮影時間は現地時間夜20時前ですが、かなり明るいですね。
見送りにきてくれていた住民の方も。
笑顔で手を振り合い、お別れです。
僕の知る範囲ではトラブルもなく、スタッフのみなさんも帰りのはしけの中では安堵の表情。
本当にお疲れ様でした。o(_ _)o
あっという間の島での3日間でしたが、ほんとうにいろいろ勉強になりました。
船は国後島古釜布で出域手続きを行い、根室への帰途につきました。
7月1日。ビザなし交流4日目の朝、再度択捉島へ。
はしけに乗るのにもずいぶん余裕がでてきました^^;
国後も択捉も今は立派な港があり、日本側訪問団の大型船“えとぴりか”でもそのままつけることができるそうですが、島のロシア行政区はそれを許さず、すべて“はしけ”を介しての上陸となっています。
四島住民を日本に受け入れるビザなし交流の時の船は、直接港に接岸しているそうです。
島のロシア人は皆やさしい人たちでした。しかし、領土問題が現在進行形であることを実感させられることはたびたびありました。
本日最初の目的地へ向かう途中。
このときロシア語が話せる方と一緒だったので、運転手さんといろいろお話。
訪問団員「島もどんどん開発されてるね~」
運転手「国はけっこうな予算つけてるみたいだけど、ほんとか?オレたちのところにゃ全然まわってこないぜ!その金どこへいったんだぁ?(゚Д゚)ゴルァ!!」
訪問団員「^^;」
いろいろあるんですねえ。
車を降りると、きれいな自然が迎えてくれました。
四島訪問最終日はまず、占領前の日本人が眠る紗那墓地の草刈からスタートです。
占領前は日本式の墓地だったわけですが、島に住むようになったロシア人もここにお墓を作るように。
ロシア人は埋葬なので、もとからあった日本人の墓石をどけて、スペースを作っているそうで、日露の墓が混在しています。
草は伸び放題!草刈機も3台出動し、数十人体勢で一気に刈ります!
これは、今回のビザなし訪問に参加されている元島民の家の墓石。
元はもっと高い場所にあったようですが、倒されてこのような状態に。名家だったのでしょう、大きいため放置されています。
本当に大変な墓参りです…。
残っていた日本人の墓石のひとつ。どれも根元に亀裂がはいっていたので、墓参で訪れた日本人が修復したのでしょうか。
草刈後は、訪問団全員で手を合わせます。
どうぞ安らかに…
草刈中は大きな蚊が容赦なく襲ってきます(( ;゚Д゚))コワカタ
この日もかなり暑かったですが、肌の露出を減らして問答無用の全身虫除けスプレー(笑)
不思議だったのは、蚊はうんざりするほどいましたが、他の虫、ミミズや団子虫やトカゲなどの姿は一切見ませんでした。時々アブが飛んでくるくらい。
生態系の不思議ですね。たまたまかな。
北方四島で水産加工業などを営む巨大企業<ギドロストロイ社>。
そのギドロストロイ社運営の体育館を視察しました。
2000年オープン。島の住民や観光客に、なんと無料で開放されています。
充実の屋内設備!
トレーニングルーム、テニス、柔道、ビリヤードができる設備があります。
ここのスタッフがスポーツサークルの指導もしているそうです。
鈴木宗男さんがバーベル上げを披露!
40キロをホイホイもちあげていました。道具の扱いにも慣れておられます。
トレーニングされてるんだなあ~
あの覇気のある行動力の源は、やっぱり体力なんだなと実感。
普段二胡より重い物を持たない僕も、ぼちぼち運動しないとな…
気持ちのいい海岸です。
有萌は「ありもえ」と読むようです。
北方四島の地名は先住民族アイヌの言葉が語源のものが多いらしく、北陸住まいの僕には不思議な響がします。
択捉島の地名では
紗那(しゃな)、別飛(べっとぶ)、年萌(としもえ)、天寧(てんねい)などなど。
これらは強制送還以後、住民には新しい地名で呼ばれています。それぞれ、
クリリスク、レイドボ、カサートカ、ブレベニスク といった具合です。
エトロフ、クナシリ、シコタン、ハボマイといった島の名前は今もほぼそのまま使われているようです。
次にやってきたのは、温泉です!
火山の多い択捉島では温泉も出るんです!
日本と違って水着を着て入浴します。
脱衣所も簡易なもので、身体を洗うスペースなどもとくにありません。
浴槽も不思議な仕組みです!
円形の浴槽が6Pチーズみたいに区切られています。
小さい写真ではわかりにくいですが、中心からお湯の出るパイプが出ていて、
「ぬるいな~」と思ったらそれを自分の浴槽に回してお湯を足す、というものでした。
お墓の草刈でかいた汗を流してリフレッシュ!
想像以上に気持ちのいいお湯でした。
この施設もギドロストロイ社のものだそうです。
普段は有料で200ルーブル(約600円程度)だそうです。
ここで昼食もいただきました。
いろいろ美味しかったですが…
たんぽぽのハチミツのクレープがおいしかった!おかわりしました。
気分一新、お腹も一杯。
訪問団は車に乗り込んで別飛へと向かいました…続く!
ビザなし交流3日目。6月30日後編です。
上の写真は芸術学校の駐車場にて。訪問団の移動に強力してくれた住民の車たちです。
芸術学校のとなりに、戦前からたっていた日本家屋「紗那郵便局」がありました。
…見るからにかなり痛んでますね。
1945年の不法占領によって上陸したロシアの人々は、元々日本人が住んでいた家にあがりこんで生活していました。
1947年の日本人強制送還以後は、残った建物を利用しつつ、もちろん寿命がくれば建替えていきます。
60年以上が経ち、この「紗那郵便局」が択捉島で戦前から残っている唯一の建物になってしまったそうです。
日本側は保存準備委員会を立ち上げ保存運動を行っていますが、現地で今生活している人達からは「危険だから取り壊したい」と言われているそう。
痛々しい紗那郵便局の姿に心を痛め、ホームビジットへ向かいます。
「ホームビジット」とは、訪問団が3~5名ずつにわかれ、それぞれ受けれてくれる家庭を訪問し、昼食をご馳走になりながら3時間ほど交流を行います。
通訳さんがずっとついていてくれるわけではないので、通訳さん不在の時間、ロシア語で会話ができるのか…(´Д`;)
団員皆不安のイベントですが、実際の現在の択捉島の人と生活を感じることができる大切な企画だと思います。
僕のグループが伺ったのは若い夫婦の家庭。
夫・妻・子供二人・おばあちゃんが我々を迎えてくれました。
子供かわいい!
なにより、ガンプラをもっていたことに小林感激!(笑)
<HGガンダムAGE-2ノーマル>ですよ!最新ガンダム!
…でもこのガンプラはこの家族がビザなし訪問で根室を訪れたときに買ったとか。
日本のアニメが択捉島でみれるわけでなないようです(=゚ω゚=)ナーンダ。
本当に心こもった料理でもてなしてくれます。写真はごく一部。
ここでもペリメニおいしかった!サワークリームをつけて。
旦那さんはロシア正教の司祭さん。択捉島には一人だけなんだそうです。
仕事柄ロシア本国との行き来は多いようで、モスクワの写真での写真などいろいろみせてもらいました。
国後島でもそうでしたが、若い人には英語が分かる人もいて、この家庭でも英語でコミュニケーションでき、助かりました^^;
ええと、僕も一応二胡をもっていってまして、このブログも一応二胡ブログなので、一応あげます…演奏の様子。
結果ははっきり言って「ヤヤウケ」( TДT)。
ガンプラ持った子供を前に蘇州夜曲を選ぶ自分の芸の無さよ…日々是精進ですね。
クランベリーがいっぱい入った手作りパイ!
ほんとうにごちそうさまでした!
芸術学校ホールに戻ってきました。
日本側訪問団が用意した、「着物ショー」「お抹茶試飲」で地元の人とふれあいます。
着物は好評!「私も着たい!」という人多数で、急遽追加試着も。スタッフさんお疲れ様でした。
地元のロシア人が「民族衣装ファッションショー」を見せてくれました。
芸術学校らしいステージでした。
最後はカチャーシーよろしくダンスパーティー!
盛り上がりました!
帰りの時間まで紗那の町で買い物です。
町も大きいので、商店の数も多かったですが、僕が入った店はどこも同じような品揃えでした。
差別化も難しいんでしょうね。
国後島からさらに離れている択捉島の店には、いよいよ日本製のものは見られませんでした。
唯一「チューブ入りわさび」がありましたが、日本語とハングル文字の一緒になったもの。
辛ラーメンなど韓国の商品が目立つようになります。
町の様子。
荒野を爆走し…
はしけに乗って旅客船“えとぴりか”に戻ってきました。
風呂入って、今日は船内で夕食。
“えとぴりか”船内ではすごくおいしい食事がでました。胃腸も落ち着くことができます。
この日のスケジュールは早めに終了したので、夜の食堂にでお歳を召した元島民の方ともいろんなお話をさせてもらいました。
北方四島について身近な感情ももちましたが、占領後60年が経ちロシア化が進んだ現地を見ているので、複雑な気持ちです…。
ビザなし交流3日目終了。明日も択捉島へ!…続く。
6月30日。ビザなし交流3日目。
前日夜に国後島を出発して8時間ほどの航海後の早朝、択捉島に到着。
目が覚めるとそこには雄大な択捉の自然を見ることができました。
旅客船“えとぴりか”は択捉島内岡(なよか)湾に停泊。
また島側のはしけに乗り換えて上陸します。
天気がよかったこともあってか、1台の車が走れば砂煙が舞い上がります。海の上からでもその様子がよく分かるほどです。おかげで島はホコリっぽかった(´д`)
港は大掛かりな工事が行われています。
韓国企業の進出が著しいとのこと。北朝鮮からの労働者の姿も。
中国企業や中国人労働者はいないそうです。
さて上陸し、国後島と同じように何台もの車に分かれて移動。
…やはり舗装は街中の一部で、はげしいオフロード走行でした^^;
択捉島は沖縄本島の2倍以上の面積があり、まだほとんど開拓されていません。
新しい建物と同じだけ、廃墟も目につきました。
芸術学校に到着。
これまでのビザなし交流の様子も。
少し時間があり、同じ建物の中にある郷土博物館を見学。
開設30年の郷土博物館には、所蔵品5000点の一部が展示されています。
島に関するアイヌ民族について、火山など地理的条件について、生態系についてなどの展示がありました。
以下に博物館のロシア人スタッフさんの解説をズバッとまとめました。
********
・島の先住民は日本から渡ってきたアイヌ
・クリル諸島(千島列島)に人間が入ってきたのは7000年前という説あり
・7世紀~13世紀ごろの集落が択捉島別飛で発掘。30戸程度のアイヌ集落が発見されている。
・島の先住アイヌは1945年に自発的に日本に戻っていった。(ソ連による不法占拠が行われた年)
それ以後クリル地区にアイヌはいないとされていたが、カムチャッカに100人ほど住んでいるのが最近わかった。
・1711年以後、ロシア人が訪れるようになり、地理や環境を調べるようになった。
・択捉島では珍しい「レニウム」や「硫黄」など鉱物資源が豊富だが、ロシアにとっては採算性が低く商業採掘は行われていない。
*********
他にも、これまでのビザなし交流で日本側の贈った品や、かつて近所にあった寺の鐘なども展示されてました。
しばらくして訪問団はホールに集められ、択捉島の議長兼地区長を表敬訪問。
クリル地区議長兼地区長さんは女性。他にも要職に女性がみられました。
ロシアでは日本の感覚よりは、要職に就く女性の数は多いそうです。
質疑応答では、今回ビザなし訪問団の一員として参加されていた新党大地代表の鈴木宗男氏等が質問。やりとりの詳細や雑感が鈴木氏のブログにありました。
http://www.daichi.gr.jp/diary/diary_2012_06.html
この後、訪問団は3~5名ずつに分かれ、一番の緊張どころ(笑)、択捉島住民のホームビジットへ出かけました…続く!
6月29日、ビザなし交流2日目、国後島後編です。
古釜布(ふるかまっぷ)の中心市街地へやってきました。
国後島の中心部。友好の家そばに車を止めてホールに向かいます。
(市場へ向かう、と言っていますが誤り。ホールに向かう様子です。)
友好の家から出発して、
携帯電話の電波塔→レーニン広場→建設中のロシア正教の教会→役場→
そしてホールへ、という流れです。歩いてすぐ。
牛さんも自由に町を歩きます。
野良犬も多く、ダックスフンドなどの愛玩犬もたくさんいました。放し飼いかな?
今回のビザなし訪問団が帰った後すぐロシア・メドベージェフ首相がやってくるとのことで、いたるところで草刈の様子がみれました。
役場の裏手にあるホールで、コンサートを開いてくれました。
ダンスや舞踊・歌などを地元の舞踊団の人たちが披露してくれた中で、ちびっ子と「ワニのゲーナ(チェブラーシカのキャラクター)」の着ぐるみが登場し、「誕生日の歌」を唄ってくれたのが上の写真。
↓この歌。
「日本の皆さんもきっとご存知の有名な歌」と紹介されましたが、日本人がどこまでこの歌を知っているか…
日本では童謡や唱歌といった「常識」と思われていた曲を知らない子供が少しずつ増えています。ロシアの子供たちも、カチューシャやトロイカを知らない子が増えてるのかな…?なんてことを考えてました。
時代は変わっていきます…
コンサートの後、近くの商店街で買い物体験です。
ビザなし交流では持ち込むお金にも制限があり、日本円3000円を上限にルーブルに交換してお買い物です。
ホールのケーキがバルクのCDRみたいに売られていました(笑)。
店にならぶ品物は豊富でした。日本製のものはあまり見られず缶ビールくらい。
ハングル文字のパッケージはちらほら。
生活はよくなってきているとはいえ、まだまだ物価は高く大変だそうです。
「日本人とロシア人の友好の家」いわゆるムネオハウスにて、南クリル地区長兼議長さん(島の責任者・メドベージェフ上陸のニュース映像にも映っていました)とクリル日本センター長さんが我々を迎えてくれての夕食会です。
出会いに乾杯!
ここでついにウォッカ飲み放題のスタートです^^;。
右の銀のビンが、この辺りじゃおいしいと評判のウォッカ。
アルコール度数は40%で、よく考えたらキツめの泡盛くらいですなあ。
トロッとまろやかで思ったよりかなり飲みやすく、危険を察知し自制しました!
左のワインも美味でした。
食事ではよく登場したこの「ペリメニ」という料理は美味しかったです。
ロシア版水餃子。豚、子羊、牛などの肉を中心としたタネを小麦の皮で包んで茹でたもの。
食事については、ビザなし交流を重ねるにつれ、日本人の好みにあうように少しずつ変化しているようです。うれしい配慮ですね。
夕食会を終えた訪問団は港へ。
国後島での滞在は1日のみなので、ここでお世話になった運転手さんとはお別れです。
漁師&消防士をやってるというユリさん!英語が通じていろいろ教えてもらいました。元気でね!
またロシア政府の用意した“はしけ”に、一人ずつ顔を確認されて乗り込みます。
以下は、はしけからの写真。
船にもどって入浴、しばらく食堂で談笑し、就寝です。
国後島での一日はすぎていきました…
船は択捉へ向け出発。つづく!
6月29日。2012年度第1回ビザなし交流2日目、国後島に上陸です。
上の写真は早朝、旅客船“えとぴりか”船上よりの眺め。緑豊かな島です。
北方四島の時間は日本より2時間進んでいます。
現地時間9時には準備完了していないといけないとのことで、日本時間でいう5時すぎから朝食だなんだの準備。早起きがちょっとつらかった…^^;
島には港がありますが、こちらの船をつけるわけにはいかないようで、“えとぴりか”はずっと洋上待機。
時間になったら、ロシア政府の係員が「はしけ」にのってやってきます。
船内で入域手続きを行い、それからメンバー一人一人の顔を確認して、はしけに乗り込みます。
*はしけ・ロシア政府の人を写真に収めてはいけないとのことで写真なし。
はしけってはじめてのったけど、結構最初は怖いものですね。
*北方四島は外国ではないので、そこへの出入りについては「入域」「出域」という言葉を使います。
国後島に上陸後、63名の訪問団は2チームに分かれ別行動。
僕のチームは海岸へ向かい、漂流物調査をします。
海岸はたくさんの海草が打ち上げられたまま腐っていて、鼻をつまむほどではないですが、独特の臭いが漂います。
海鳥の研究をしている先生の指示のもと、範囲を区切り、そこにある海から流れ着いたゴミを集め、分別します。
これには、地元の子供たち20数名も一緒に行いました。
子供たちは「コンニチワ」「サヨナラ」くらいは知ってるようで、元気に挨拶してくれました。
僕らが「ニーハオ」「シェーシェー」くらいはなんとか理解してるのと同じような感じでしょうか。
多いのは、地元で行われている定置網の作業の時にでるロープやプラスチックの破片。
わけのわからん鉄片や日本ではみない形のペットボトル、
韓国漁船によるあなご筒漁で使われるプラスチック製の道具も。
この海岸からは知床半島が見えるので、日本からのゴミもちらほら。
日本の感覚からするとこれでもきれいな海岸だと思いましたが、日本みたいに海水浴客で賑わうわけでもなく、ほとんどが漂流物なんですよね。
ところで北方四島にはゴミ処理や浄水施設はなく、ゴミは荒野の一箇所にまとめて置いてあるだけ、生活廃水は海に垂れ流しだそうです。蛇口の水は飲めません。
ほとんどがまだ開発されていない島だからこそ可能な生活ではあります…。
作業中に突然熊が!!!!!やばい!!(;´Д`)ノタスケテ~
離れていたのでよかったですが、ビビリの小林はかなりビビリました。
ハンターさんが来て、追い払ってくれます。
ハンターさんとパチリ!ありがとうハンターさん!
海岸で昼食をいただきました。
この他にコンソメスープと手作りピザ。
ハンバーグうまかったなあ~
ロシア人の主食はじゃがいも。この訪問ではこのあと、たらふくじゃがいもを食べることになります。
その後、ダーチャとよばれる家庭菜園&別荘を見学。。
(写真にはありませんが、すぐとなりに別荘もあります。)
ダーチャは大陸では昔からありましたが、国後島では1990年代初頭からはじまったそうです。
ペレストロイカがうまくいかず経済不振となり、当時のソ連本国から食料が移送が滞るように。
そこで、畑に向かない土地を切り開き、家庭菜園で自給自足をはじめたとのこと。
島の人は、かなり所得の低い人でもダーチャを持ち、週末をそこで過ごしているそうです
ダーチャの多くは太平洋側より暖かいオホーツク海側に作られるそうです。
畑の大部分はやはりじゃがいも。他に野菜、ベリーなどを育てます。ビニールハウス栽培も行うそうです。
現在では土地の所有権も認められているとか(完全なものではないそうですが)。
見学させてもらったダーチャは、電気水道がきていません。
電気はディーゼル発電機で。
近くに小川がないダーチャでは、ドラム缶に雪を溜めておいたり、雨水をタンクに集めたりして飲み水を確保するようです。
ロシアの人はお花が大好き。
タイヤをプランターにするのは、ロシアではよくやるそうです。面白いアイデアですね~
次の見学場所へ移動します。
訪問団63人の移動は、住民の自家用車を20台ほど集め、行列を作っての大移動。
ほとんどが中古日本車。キーを差し込むと「カードがささっていません」と日本語アナウンスがかかる車もあったそうですw。
道路の舗装は一部しかされておらず、あとは馴らしただけのオフロード!すさまじい悪路でした。
この動画の様子でもかなりマシな場所です。
「途上国にもこんなとこない!」という声も(笑)。
ロシアが行っている「新クリル発展計画」によって続々舗装工事は行われてはいるようです。
また、10年ほど前のビザなし交流訪問団は軍の車で移動していたとか。
10年で車がこれだけ一般に普及しているということでしょうか。
容赦なしのオフロード進むと突然現れた施設「メンデレエフ空港」。
残念ながらこの日は休業日とのことで駐車場で解説を聞くだけで中は見れませんでした。
1995年から稼動している空港で、建物は最近のものだそうです。
それまでは鉄板を敷き詰めて滑走路にしていたそう。危険ですね(;´Д`)
最新の管制システムを備え、AN24型機、AN26型機といった「第3クラス(?)」の飛行機までの離着陸が可能だそうです。
定期便周5便運行。年間利用者約12,000人。貨物約40トン。
サハリンの「ユジノサハリスク空港」への便のみだそうです。
この空港から大陸へはサハリン経由となりますが、地元の人はウラジオストクへの直行便を求めているそうです。
中が見れず残念!
また車に乗り込み、大地を突っ走って、今度は町へ向かいます…続く!
2012年6月28日から7月2日の期間、
独立行政法人北方領土問題対策協会が運営している「北方四島ビザなし交流」に参加し、国後島と択捉島を訪問しました。
大変貴重な経験をさせてもらってきました。
ここからしばらく、当ブログの主旨から離れますが、ビザなし交流での国後島、択捉島訪問記録をレポートしたいと思います。
初日6月28日、根室市内。
この日は“北海道立 北方四島交流センター(ニ・ホ・ロ)”という施設で事前研修、出航という流れの一日でした。
(研修会場ニ・ホ・ロの交流ホール。超逆光!)
研修で学んだことをざーーっとまとめると…
・択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島は歴史的にも国際法的にも日本固有の領土。
これまでに一度も日本以外の領土となったことはない。
・北方四島総面積5032平方キロメートル。国後島は沖縄本島よりすこし大きいくらい、択捉島は沖縄本島の2倍以上の面積!
・1945年当時まだ有効だった「日ソ中立条約」をソ連が一方的に破棄して、当時日本領だった千島列島(北方四島より北側)に進攻。その後日本がポツダム宣言を受諾した直後の8月28日から9月5日までの間に北方四島を占領した。
・不法占拠の後、ソ連軍人は北方四島住民の家を区切って住み込むように。最初は言葉も通じず不安な日々の中、自力で監視をかいくぐり島を脱出する人も多数。
・占領から2年後の1947年、ソ連軍は「ソ連国籍を取得して島に残るか、本土送還に応じるか」の選択を島民に迫り、ほぼ全員が強制送還に応じた。
・強制送還は劣悪環境の中行われ、途中で命を落とす人も。樺太を経由し函館へというルート。
・計7回で8569人が強制送還。以後、北方四島に日本人は住んでいない。
・現在ロシア国内法では、北方四島はサハリン州に属し、歯舞群島/色丹島/国後島が「南クリル地区」、択捉島が「クリル地区」ということになっている。旧ソ連の様々な地域からの移住者とその子孫で四島計16,346名(2009年の資料)が在住。(歯舞群島にはロシアの国境警備隊のみ)
・インフラの整備が遅れているが、2006年ロシア政府が承認した「新クリル発展計画」によって新たなインフラ整備が行われている最中。住民の生活も変化している。
・現在北方四島に住んでいるロシア人が、かつての日本人島民と同じような境遇になることを日本政府は望んでいない。「北方四島に対する日本の主権がロシア政府によって確認されるならば、実際の返還の時期、態様および条件については柔軟に対応する」というのが日本政府の立場。
1991年、日ソ両国外相間の往復書簡により
「領土問題の解決を含む日ソ間の平和条約締結問題が解決されるまでの間、相互理解の増進を図り、もってそのような問題の解決に寄与することを目的として、かつ、いずれの一報の側の法的立場をも害するものとみなしてはならないとの共通理解の下に、我国国民の北方領土への訪問を、旅券・査証なしで行う」ことなどを内容とする枠組みが作られました。
翌1992年より、この枠組みの中で実施されている事業が、今回僕が参加した【北方四島ビザなし交流】です。
北方領土は日本固有の領土。日本にとっての終戦の年・1945年からロシアによって不法占拠されています。
日本であるはずの北方領土に入るのに、ロシアのビザを取得していくことは“ロシアの主権を認めたことになる”ため、《旅券・査証なし》の訪問事業が行われています。
北方四島在住のロシア人の日本受け入れも行われていて、その際もビザなしで行われているようです。福井を訪問されたこともあったようですね。
・北方四島交流事業(ビザなし交流)は1992年度から2010年度の間、日本側からの訪問団は242回9,962名、四島からの受け入れは168回7,336名の実績がある。
・相互に理解を深め、四島返還による北方領土問題解決のための環境作りを行う事が事業の目的。領土交渉の場ではない。
・これまでの交流において、現島民は領土問題に対する日本の立場をよく知るようになった。
・ロシアの法令が適用されることを認めるようなことは日本の立場を損なうことに。訪問中に盗難にあっても地元警察に捜査要請できないし、体調を崩し病院へ移送となることも避けたい。(ウォッカの飲みすぎ注意!と重々念押しされました^^;)
・ロシア語講座もありましたが…団体行動ということで、結局「スパシーバ(ありがとう)」だけで乗り切る腹を決めました┐(´ー`)┌ マイッタネ♪ 。
今回の「2012年度第1回ビザなし訪問団」は全63名。
参加者について資料には「元島民とこれに準じる者、返還運動関係者、専門家、報道関係者及びこれらの同行者」とあります。
“返還運動関係者”は実際には県議会議員、日本青年会議所メンバー、大学教授、研究者、学生など様々な顔を持つ、全国から集まった人たちで構成されていました。
(他に国会議員、通訳、医療関係者が同行。)
そもそも僕がこの事業に参加できたのは、僕が元島民3世だから。
先祖が択捉島の留別(るべつ)というところに住んでいたそうです。
(ビザなし交流などの事業に参加するには、社団法人千島歯舞諸島居住者連盟会員となっていることも必要)
僕は「元島民とこれに準じる者」枠での参加です。
意外だったのは、「元島民とこれに準じる者」が全参加者63名中10名弱だったこと。
少ないな、という印象でしたが、「ビザなし交流」については元島民枠自体があまり多くないそうです。
そのかわり、元島民にとってはビザなし交流の他に、墓参(墓参り)、自由訪問(住んでいた場所を訪問)といった別事業もあるとのこと。
今回参加していた80歳の元島民の方が、笑顔でハードな日程をこなしウォッカをあおり、「来週墓参でまた行くんだー」と言っていたのにはこちらも励まされました。超元気!
学のない僕にとって、北方領土問題の詳細についてはとても勉強になり、この問題がいまさらながら重大であることを噛みしめることができました。
自分の祖先が北方領土と関係があることについての意識さえ、とても低かったです。
自分の家のルーツやそれにまつわる歴史さえうまく伝承されていない家庭の問題。
元島民の方の多くが既に亡くなってしまっている現在、問題を次に伝えていくことの大切さからも、今回の参加した事業の意味合いの大きさを実感しました。
また、自分のルーツを強く意識できたことで、研修を終えた段階で既に「参加してよかった~」などと思ってしまいました(笑)。
で、この後移動。最後の買い物タイムをドラッグストアですごし、港へ。
今回乗った船「えとぴりか」は、「ビザなし交流」「墓参」「自由訪問」など北方四島との交流事業で使われる船として、2012年に就航されたばかり!食事も美味しかった!風呂も立派!
荷物を積み込み出港式を経て、16時半ごろ根室港を出航、国後島へ。
船内はきれいで思っていたより広く、航行も安定していてとても快適でした。
今回の「ビザなし交流」は船内で4泊しました。
(エトピリカって鳥の名前だったんですね~~…^^;)
夜は結構時間がある。すること特になし。
ということで、夕食後には食堂が開放され参加者同士のプチ宴会です!
普段知り合うことのなかなかない様々な経歴の持ち主同士の交流ができ、とても楽しかったです。
海上保安庁の船に随行され、国後へ。
出航3時間後には国後島の古釜布(ふるかまっぷ)湾に到着、湾内停泊のまま船内泊となりました。
こんな感じで初日は終了。
船からは国後島の夜景を眺めることができます。
さて、どんな訪問になるのやら…?続く!!